2012 年 2 月

岡崎京子

岡崎京子氏の作品でマトモに読んだのは「リバーズ・エッジ」だけである。

端的に言って、「名作」と言われる彼女の作品がニガテなのである。

内臓を剥き出しにされ目の前にうりゃぁあぁあぁあぁあと突き付けられる感じ。「ほら見ろ、これだろうお前が本当に見ているものはこれなんだろう」と、普段敢えて見ないことにしている汚さ愚かさ醜悪なるものを直視させられる感じ。

これが現実なんだと赤裸々に示したところで何になるのかと思う。生のおぞましさなど当為のもので、見ないからと言って忘れるわけがない。むしろどっぷり浸ってしか生きられないからこそ、生きるための洗練とアソビと「その先」が必要なんじゃないのかと思うのだ。リアルの沼を生き抜く「強度」は必須だが、そこでしか生きられないなんて真っ平だ。えぐり出すだけなら誰でもできる。「その先」なのだ。

 


「言葉」・1

世の中には様々な「言葉」がある。第一の機能は意思伝達だ。が、伝達する前にまとめねばならずまとめるには思考が必要で思考するには定義を必要とする。

「定義」という機能に「切り分けて取り出す」性質を発見し、反抗的な心持ちになって十数年経つ。「切り分けざるを得ないだなんて負の面もあるんじゃないの」とまるで子が親に生意気を言うような、でもその真偽と自分の態度に、本当は心のどこかでずっと頓着しているような、落ち着かない心持ち。

それは「覚悟」を決めるためのは準備だったのかもしれない。言語活動とは自分の触れたもの感じたものに「名前」をつけ、取り出し定義づけ関連を見出だし生み出して表現する、という行為である。その営みを自覚的に行うということが即ち言葉を操るということなのである。最もエッジの利いた、世界における精神の確立方法。私はずっとそれがしたかったのかもしれないと最近思うのである。


境界と孤独

自己と他との境界はどこにあるのか。

私は長らく「皮膚にある」と考えてきた。他者や他のものとの融合を阻むもの、それは皮膚だと。

人として生を享けるということ自体、とても地上的なことである。地上では一切が分かたれている。分断ありきなのが地上的であるということであり、分断があって初めて関係性が生まれる。

境界がなければ、個と個はいともたやすく溶け合えるのであろうしまたさらさらと分かれるのだろう。液体のように或いは粘菌のように。

而してひとはそうはいかない。ひとがどろっと溶けたらそれは惨事である。ひとがひとであるためには皮膚は必ず必要だ。しかし最も早く学習すべきが己という個体の意識なのであれば、即ち「分断された孤りになった己」を一刻も早く胸に刻めということだ。

生には孤独が既定され内包されている。


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