2012 年 7 月

学びで獲得する自由とは何か。

梅雨が明けた旨の宣言が出されたとのこと。
ちょうど本日7/17、京都では、祇園祭のハイライト・山鉾巡行と神幸祭が行われたので、人口に膾炙してる通りの梅雨明けになりました。
京都住まいの頃は、梅雨に入ると祇園祭を心待ちにしたものでした。

 

「問い:何故学ぶのか? -答え:自由になるため」というブログ記事を拝読しました。

この中の一文「彼らは精神の暗闇の中に閉じ込められていた。」
この「精神の暗闇」という言葉は「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」でも見かけたように思います。

ヘレン・ケラーが「精神の暗闇」から抜けだしたのは、言葉の存在と機能を知ったことによるのだとは、よく知られたことでしょう。
上掲ブログに描かれたフレデリック・ダグラスの物語にも、また同様のことが記されています。

この2人に起こった「奇跡」はまさにドラスティックに2人の人生を変えた訳です。

翻って、現代日本の子供たち、或いはある程度の年齢の大人まで含めて、どれほどの人がこの「学ぶ」ことの根源的な感動を知り理解しているのでしょうか。

私は上掲タイトルの言葉にある「自由になるため」に、「奴隷状態から抜け出す」以上の意味を見ます。
「人間は、その持てる語彙を超えて思考することはできない」
語彙とは定義であり、定義は思考・思想の枠組みから生まれます。
「自由になる」とは、 「自由自在にものを見、捉え、生み出すことができる」ことだと思います。

日本は、世界規模で見れば今でもやはり、教育水準の高い部類に入ると思います。
教育の在り様への批判は強く、方向方針から方法まで、様々に議論されていますが、少なくとも在野での多くは「今行われているものはダメだ」 というアンチにとどまっているように見えます。
これは、とても贅沢な事象です。

子供たちはしょっちゅう、「なんでこんなん勉強せなあかんの?」と問います。
やがては「偏差値教育/受験教育なんてダメだ」と考える大人へと成長していくのでしょう。

彼らは、「精神の暗闇」で言葉に(或いは学問に)飢えた経験がありません。
そして、それらが得られる歓びを、小学校も中学年になれば忘れているように見えます。

彼らにとって、勉強とは、当為のものであり所与のものであり、自らへの自由を奪い苦役を課すものでしかありません。

学ぶことに飢えずに済む環境は、幸せです。
ですが、学ぶことに根本的な幸福を感じることなく成長していくのは、不幸なことだと思います。

 

「読み・書き・そろばん」ができればそれで良いんでしょう?という考え方もあるとは思います。
中学生にもなれば、子供たちは「こんなん、絶対これから使わへんもん」「嫌いやから、自分は絶対こんなん使わんと生きていくもん」と言います。
そこにあるのは、「目の前のことに対処できるだけの最低限の知識があれば、それで良いんでしょう?」という問いかけです。

しかし実は、小学生の算数の中ですら、何段階かの「抽象思考への飛躍」を求められています。
まずは、「数字」というものがあるのだ、ということ。
次に、「0(ゼロ)」という概念の導入。
もう、挙げ出すとキリがないので、やめておきます。

抽象思考とは、目の前に存在しないもの、或いは世界に実体を持って存在しないものを「在る」と仮定して論理的に思考する作業のことを言うのでしょう。
たとえば「道徳観念」というものも、ここに入れられます。「命の大切さ」などというものも、広くとればここでしょう。
当たり前に発話されているように見える沢山のことが、実は抽象思考に支えられていて、この力は訓練次第で伸びていくものです。
そして実は、精神・身体の発達段階において、適切な時期に適切に伸ばすのがベターな能力でもあると思います。

 

抽象思考は、人を、「見えるもの・手に取れるものしか見えないし理解できない」状態から「自由」にします。
自らの思考能力を高めること・外側にある思考の枠組みを取り入れることを可能にすること。

外部の何かが何を言っているのか、自分の言葉で余すところなく理解できるということ。
自分のモヤモヤっとした何かを、他者に余すところなく伝えることが出来るように、共通認識の土俵に立ってそこで使われる言葉の意味と定義を正しく用いられること。
それは「精神の自由」です。

子供たちが、その自由を獲得するために勉強しているのだと、それは歓びであり「より幸せ」へ向かう方法なのだと、理解してくれたら良いなぁと思います。
苦役の先には「合格」などと陳腐なものでない……しかし結果的に「合格」をもたらす……楽しさと歓びがあるのだと 気付かせてやりたいなぁと思います。
そのために、日々自分は、現実的に何をできるのか、方法の模索は続きます。

 


保坂和志氏と、岩崎夏海氏と。

私は保坂和志が少し(斜め上をいく感じで)好き、というか好感をもっていて、ドハマリして次々に読むというものではないが、たまに読むと「やっぱり良いなぁ」と思う。

ところで最近、岩崎夏海氏のブログを見つけて、「世界文学」(より普遍的な言葉に意訳するといわゆる「純文学」のことか?)への思いやら、東日本の震災被害者に何を成さざるべきかやら、を読んだ。

岩崎氏のおっしゃることには正直、全くぴんと来ない。

保坂氏の作品を今読んでいて、2つのことを思った。

1つは、岩崎氏が好きになれず、保坂氏は好きになれるのは、両者のスタンス…お二方は小説家なので、はっきり言ってしまえば生きる覚悟や、人格のようなもの…に起因するのだろうか、ということ。

もう1つは、しかしそれは、社会情勢や、同時代的な文化・風潮によるものなのだろうか、ということ。

1つ目でいえば、岩崎氏のネット記事を読む限り、私は全く賛成できない。 この人は何を甘いことばかり言ってるのだろうとしか思えない。
だが、この方の凄さはむしろ私がそう感じる類の「弱さ」をメタ的にもメタメタ的にも…(以下略)「弱いまま」で曝け出せるところにあるのかもしれず、それは氏のおっしゃる「世界文学」の魂たるものなのかもしれない(私には分からないが)。
要は、私の個人的な趣味に収まることだということだ。

しかし、この1つ目の思いから、2つ目が出てくる。
つまり、岩崎氏のような表し方やスタンスのほうが、より「同時代的」なのかもしれない、ということだ。
そこに思い至るのは、今読んでいるのが「小実昌さんのこと」だからかもしれない。長い引用は兵役中の体験を扱ったものだ。

岩崎氏と、保坂氏の、最も異なるところは、「自己の感じ方・感受性は普遍的な真実に繋がる」という確信を、ナイーヴに信じているか、それとも果てしなく懐疑しているか、だと感じた。
岩崎氏は、自己の体験とそれにまつわる思いを述べた後に言い切る。「人間とはだから、こういうものなのだ」と。
主語である「自分は」と「人間は」が、全く引っかかりなく置換可能である、と信じられる感性には、正直絶句する。

だが、社会で求められているのは、正にこういう「自己と他者の境界のなさ」なのだろうか。
或いは、自己が普遍的なものであるか否かを徹底的に懐疑する、という行為はもはや価値を落としたのだろうか。

昨今の多様な(あるいは多様であるかに見える)言説が示す「社会的なムード」に興味があって、よく見ているが、なかなかこれといった結論は出せずにいる。
非常に興味深い。
そんな中での、驚いた一幕。


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