2012 年 8 月

亡くなりました。

昨夜、ハムスターのメルシーが亡くなってしまいました。

帰ってすぐに見るのが習慣になっていたのですが、昨夜は出てきていなくって、寝てるのだろうと放っておきました。
深夜、ふと、出てきていない時間がいつもと比べて長すぎると思って巣箱を開けてみたら、既に亡くなっていました。
まるで眠ってるような安らかな顔と姿でしたが、亡くなってました。

短い短い生活でした。家人は違いましたが、私にとっては初めて飼ったペットでした。
ペットショップから連れて帰ってくるのにあんまり動転しているので、とにかく揺らさないように静かに運べるようにとすり足で捧げ持って歩いていた時から、愛おしくてたまりませんでした。飼うのを決める前はすごく迷いましたが、あっという間に家の一員になって、可愛くて可愛くて。

これからまだまだ1年2年世話をしていくんだと思っていたのに。
「めるちゃん」と呼ぶたびに歓びで満たされたのに。
いつか慣れてくれたら良いなと楽しみにしていたのに。

愛していたのに、いなくなってしまった。

merciという名前は、私たちの大好きな女性にあやかってつけました。
めるしー、という音もその姿によく似合ったし、めるちゃん、めるっち、める、と色々に呼ぶにも良かった。
何よりも、この子を呼ぶのが「感謝の言葉」だ、というのが、2人ともとても気に入った点でした。
ほんとうに素敵な名前をつけてあげられたと思っていて、めるちゃんめるちゃんと口にするだけであのメルシーの姿が思い浮かんで、幸せな気持ちになりました。
でも、もう、その名を呼ぶ相手がいなくなってしまった。

 

たくさん、たくさん、思うことがあって、それとは全然別にただ「可愛かったなぁ」と生前を思い浮かべる度に、勝手に涙が出てきます。
「可愛かったなぁ」「あの子がいてくれて楽しかったなぁ」と思うたびに、また、たくさん、たくさん、いろんなことを考えます。

考えながら、しかし、と思います。
可愛かったのもこちらの都合だし、愛していたのもこちらの気持ち。
いなくなってこんなに悲しいのも、こちらの気持ち。
だから、悲しく思うのは、ずいぶん身勝手な気持ちなのではないか。

 

亡くなっているのを発見して、「どうしてこんなに突然、早く、死んでしまったのだろう」と、2人ともそれぞれにそこへ思いが向かったのでしょう。
2人とも無言でインターネットに向かっていました。
環境の変化、ストレス過多が原因なのだろう、という結論に、どちらも達していると思います。
もちろん、既に病気を持っていたのかもしれないし、弱い個体だったのかもしれないし、解剖でもしてみない限りは分かりません。
最期は看取れなかったので、どんな風に亡くなったのか分かりませんが、素人目・人間の目には、「眠ってたらそのまま死んでしまった」ように見えました。
死のときに苦しまなかったなら、良いなぁ。それが一番良いなぁ。

でもそこに至るまでの間は、ほんとはずうっと苦しいのを隠していたのかもしれない。
私たちの不慣れな飼い方のせいで、すごくストレスが溜まっていた末のことだったのかもしれない。
私たちは一生懸命、より良い環境を、より快適な生活をと心を砕いたけれど、全然的外れだったのかもしれない。

本当に愛していたけれど、彼女に適切なことはしてやれてなかったのかもしれない。

なぜ、生きてる間に、あの時に、この情報を見つけなかったんだろう。
あの判断がいけなかったんじゃないか。
思い返せば、責められるべき点はいくらでも思いつき、最終的には「つまり、飼ったこともないのに飼おうと決めたのが悪かったんじゃないか」というところに行きつきます。

自分が飼ったから、死なずに済んだ命を自分が殺してしまったんじゃないか。

 

しかし、と思います。
そうやって責めていく行為は、自分の悲しみを引き起こした現実を分析し、”自分にとって”納得いく理由を探し出し、自分を慰撫する行為でしかないのではないか。
少なくとも、向かう先は「自分の感情」でしかないのではないか。少なくとも亡くしてすぐの今の時点では。

 

どんな気持ちが、「メルシーにとっての、メルシーの死」という「メルシーにとっての事実」に正しく向き合っていると言える気持ちなのだろう。
勝手に涙が出てきてはまさに「悲嘆に暮れる」「胸がつぶれる」思いをするのですが、それは「愛したペットを亡くした自分の気持ち」でしかない。

 

メルシーが死んだ、ということを、認めるのにまず時間がかかりました。
なかなか受け入れられず、本当は熟睡しているだけなのではないかと、何度も何度も名前を呼びに戻ったりしました。 ちょっと音を出して驚かせてみたりもしました、目覚めるのではないかと思って。
本当は、巣箱を開けてその姿を一目見たときに、あぁ亡くなっている、と分かったのだけど。
でもどうしても、感情の方で受け入れられずに、混乱した数時間を過ごして、 その間も「なんと利己的な感情に支配されていることか」と思っていました。メルシーは亡くなっているし、家人はその悲しみに耐えていて、私ひとり、その2人のそれぞれに向き合えず逃げようとしている。

今もまだ実は、巣を見に行ってみたりしてしまいます。
昨日までと同じように、いるんじゃないかと思って。

 

まだ相当に動揺・混乱していて、発作的に泣いたり、まったくの空白が来たり、とても人様に見せられる姿ではありません。
もっと落ち着いたら、何がいけなかったのか、客観的に冷静に振り返り学ぼうと思います。

でも今は、メルシーがもういないという事実をまず完全に受け入れるのが、成すべきことなのだろうと。

メルシーにとってのメルシーの死がどのようなものであったかはもう、私の……「利己的」になる可能性からは絶対逃れられない……推測でしかあり得ない。

だからこそ、 たくさんの歓びと、楽しさと、夢や希望とをもたらしてくれたことに、愛と感謝を捧げたい。
愛くるしい姿や生態は、確実に、大きな喜びを与えてくれました。
毎日起きたらまず様子を見て、職場でも「メルシー」と思う度に明るい気持ちになって、帰ったらまずメルシーを見に行って、そういう歓びをくれた存在。

愛は、対象を必要とします。
愛すべき対象に対して動き、流れてこそ、自分の中に在ると感じられるのが「愛情」です。
それは確実に歓びをもたらします。
なので、愛させてくれる存在、「愛おしいな」と思わせてくれる存在は、そこにいてくれるだけで、十二分にありがたく貴い存在なのです。

いてくれて、ありがとう。
こんなにも愛させてくれて、ありがとう。
小さな小さな命は、しかし私たちにとっては唯一無二のものでした。

そして、愛した命の亡骸を、その生活の跡を、きちんと世話してやるのが、メルシーに最後にしてやれることであり、私たちに神様が下さった「お役目」なのだろうと、ありがたく押し戴こうと思います。
可愛かったなぁ、メルシー。本当に可愛かった。
神様のもとで、もうしんどいことも怖いことも全くなく、のびのびとしていてくれたら良いなぁ。

もうあの子はいないんだなぁ。もう、あの愛情をかける相手はいなくなってしまったんだなぁ。

今夜、お葬式をやろうと思っています。

 

ハムスターを先に欲しがった家人は、私に「こんなに悲しい思いをさせてごめんね」と言ってくれました。
ペットなど飼ったことがなかった私は初めは飼うことにいい色を示していなかったのです。
でも、買ってすぐから大事に大事に思い、メルシーを見ては「可愛いねぇ、可愛いねぇ」と喜ぶようになったのを見て、家人は喜んでくれていました。
こんなにも素敵な時間と体験をくれた家人には、とても感謝しています。

 

可愛かったメルシーと、彼女との暮らしをくれた家人へ、心からありがとう。


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