2012 年 10 月

「日本人」であるということ

私は中学時代をシンガポールで過ごした。

ちょうどバブルが弾けた頃。
湾岸戦争突入前夜、そして勃発。

あの時代、パスポートが命の次に大切なものだった。
それが無ければ何もどうしようもなくなる大事な大事な命綱だった。
唯一、自分を「日本人だ」と証明してくれるもの、シンガポールの国内に居住する外国人だと保証してくれ、生活を守ってくれるもの。
私は「日本人」だったから、あそこにいられた。確かに、「日本」という「国家」が、私を守ってくれていた。

シンガポールは恐らくまだ中継貿易で栄えていて、基本的に日本人も日本語もとても好意的に歓迎されていた、少なくとも街では。
日系企業に勤めれば給与が良い。
日本人観光客の相手ができれば、お金を落としてくれる可能性が高い。
市バスで知り合った現地の大学生のお姉さん(恐らく、非常に優秀な方だ)に「日本人ならぜひ友達になりたい」と住所を戴いたこともある。(それを入れた財布をその直後に落としてしまい、結局音信は取れなかった。今でも申し訳ない。)
タクシーに乗れば、片言の日本語を一生懸命使おうとするドライバーは珍しくなかった。

だが、一方で、日本人は第二次大戦中にシンガポールで酷い虐殺を行った民でもある。
今は知らないが、当時、「孫文記念館」の2階は第二次大戦の資料館になっていて、日本人がシンガポールの人々に対してどんな拷問を行ったかというスケッチがずらりと貼ってあった。
恐らくは8月15日にあったのだろう、戦争で亡くなった方々の慰霊碑で行われる追悼の集会の最中と前後には、その界隈には行かない方が良いと避けた。
ナショナルミュージアムで第二次大戦が企画展となった期間には「あの辺りには行かない方が良い」と父親が顔をしかめていた。

同級生がチャイナタウンを歩いていたら、上から水が降ってきた、卵が降ってきた、という話はよく聞いた。
誰かがそう言うと、必ず「私も」「私も」と同様の体験が語られた。
私自身は、幸いにというか、そこまでの被害を受けたことはない。
だが、日常的に皆で行っていた学校近くのキャンティーンで、ある日突然、老婆である店主に「日本人は来るな!」と追い払われたことはあった。
皆で戸惑っていると、あちらで他の店の若い男性が「もうこっちにおいで」と手招きしてくれた。

日本人中学では現地の学校と「交換学生」が行われていて、そこにはホームステイも含まれていたが、そのプログラムに参加した生徒曰く、
「他の家族はみぃんな大歓迎してくれたけど、そこのおばあちゃんだけが、日本人は家に入るな!ってすっごい怒ってて、家族がなだめてた」
らしい。

 

そういう日常の中で、
「もう今はこうやって仲良くしてて、経済でもやりとりしてて、若い人はみんな歓迎してくれるんだし、今は今じゃん。
戦争のこと持ちだされても私たち知らないじゃん、関係ないじゃん」
と言う同級生もいた。

彼女に面と向かって反論はできなかった、と思う。
記憶ではできなかったが、実際にはどうだったか覚えていない。
ただ、今思い出しても、やっぱりきっぱり反論はできない。

それは一面で、成立しうるものの見方考え方だ。
建設的に前を向こう、今うまくいっているのだから、過去のことは水に流せば良いじゃないか、という考え方を一概に否定することは、私には出来ない。
それが、実際に、己に覚えのないことでいわれなき暴力や拒絶を受けている身であれば、尚更だ。

だが、一方で、思う。
自分は自分に責任なくとも、日本人である。それを捨てる気もない。
日本人でない人から「だってお前は日本人だろう」と言われる時に、それを否定する材料など持ち合わせているはずがない。
「日本人」だからこそ、あそこにいられて、生活できていたのだから。
それゆえに向けられる敵意・大きな恨みを、 我が事として引き受けるのは難しくとも、我が事ではないと言い切ることはできないのではないか。

あれから20年経った今も、答えなど出ない。

ただ、あの数年間こそが、「自分は日本人である」ということを明確に自覚するための期間になったことは確かだと思う。
伝統も、負の歴史も、すべて背負っている日本人の一人であるということ。
そして、日本という国家に守られ、生かされ、様々な恩恵に浴し、そして果たすべき義務を負った日本人の一人であるということ。

日本国のパスポートを取得する権利を捨て去らない限り、現代国際社会の中では「日本人」でしかあり得ないということ。
そして、もしもそれを捨て去ったとしても、自分が日本人の血を引きそこで育てられた人間であるという事実は変わらないということ。

そういう端的でシンプルで、重くもありがたい事実を起点とする以外の視点を、私は持ち得ないと思う。


Get Adobe Flash player