2013 年 5 月

【読んだ】ブラックジャックによろしく(1~13巻)

「差別」問題って難しいよね。
…と、いつも思うことを、「ブラックジャックによろしく」で再確認。

「差別は人を傷つけるからいけない」それはそうなんだが、被差別者当人が感じる「差別」にはもっと具体的なことも含まれる。
就業とか各種免許取得とか家探しとか結婚とかその他日常生活を営む上でのいろいろな具体的な困難や不利益。

それらが変わるには、人を啓蒙し理解を促し「同じ人間だ」という心根をつけ…etc.
確かにそうなんだが、そういう風に「気持ちが変わる・見方が変わる」ことが起きれば、勝手に社会は変わるのかというとそういう訳でもない。
なので、社会を変える=法規制や運営システムを変えることと両輪で回すことを、活動されてる方なら誰でも考えるだろう。
「世の中そういうもの」と思われるような状況になれば、人の意識は勝手に変わるというのもまた真なので。

しかし、これを積極的にやろうとすると「権利」の理屈を使わざるを得ない。
ここで「強硬に権利を主張して奪いとろうとする」と、(あるいはそうしようとしていると判断されると、)反発が起きる。
「変わることを求められている側」は「変わりたくない」…それが既得権益の毀損を恐れるためであっても、単に「人間は変化を強いられるのが嫌いだ」という点からの防衛反応であっても。
そして、やがて勝ち得た権利を受益するのであろう側すら、強硬手段によって、(一時的にでも)非難や批判が集中する状況に陥るのを恐れる。

「差別」というのはとても社会的な問題で、社会では自他の損得が拮抗する。

たとえば、企業における障害者のための雇用枠の存在。
この枠を満たすと企業にはお金が入る。
結果的に障害者雇用の道が開かれる。
ここまではいい。

必要となる「障害者」の認定には3つの種類がある。知的、身体、精神。
この中で、身体障害者の方が、精神障害者よりも、この雇用枠の恩恵を享受できる可能性が高い。
身体障害者はIQにも問題がないし、心や性格の方にも問題がない。物理的な困難へのサポートは必要となるであろうが、雇えばちゃんと出社するだろうし、話も通じるだろう。精神障害者はそこが「アテにならない」。来るか来ないか分からないし、急に途中で帰ったりするかもしれないし、それを(「障害者枠」で雇ってしまっているから)咎めることもできない。結果、払う人件費に見合うだけのパフォーマンスが得られるかどうか分からない。が、雇う以上は「アテにならないから責任ある仕事は任せられない」とも言えない…そんなことをすれば早晩「ブラック」と騒ぎ立てられるだろう。

という話があったりする。統計は知らないし、権威や学識ある論説なのかどうかも知らない。ただ「そういうものだ」と常識的なるものと語られる精神科医療の現場をいくつも知ってるだけだ。

これは、障害者の中でも特に精神障害者が差別されている、という事例なのだろうか?
YES、とも言える。精神障害者は「病気になっただけの人」であるので、雇用に関してこのような格差を設けられ結果的に不利益を被るいわれはない。彼らにも、自立して生計をたて、人生を営む権利がある。
が、NO、とも言える。たとえば…自分の都合で会社に来たり来なかったりする人間は、企業にとっては人材価値として低い。利潤追求とそれを通した社会貢献が本題であるのが民間企業で、その使命を果たす活動に参加し、貢献した分給料を払われるのが被雇用者。そこで信頼を得られない人間は雇わない、というのは健常者であっても同じこと。「勝手に休むバイトならクビにするでしょう?」というのは企業側の理屈としてはもっともだ。…あるいは…「いや、しかし病のために一時的にそのような状態になっているだけの人なのだから、むしろチャンスの場を作るべきだ」というのなら、本書でさんざん言われる「精神障害者は可哀想」という「差別的目線」と何が違うのか、という理屈を持ちだすこともできる。…などなど。

私には、このどちらに与すべきなのか分からない。

結局、民主主義社会の中では、人心の多数決の問題に帰するので、やはり意識啓発啓蒙と事例づくりによって「社会を変える」のが一番実効性のある方法なのだろう。
この「事例づくり」の地道な努力の部分が全く描かれていなかったことによって、「ブラックジャックによろしく」精神科編の説得力は著しく下がる。まあ、もっといえば、統合失調症のみにケースを絞った時点で、「精神障害者への差別問題」への説得力はほとんど無いに等しいのだが。
なので恐らくは、「差別問題」をテーマとして取り上げた、「人間の命の重さ」のみを謳うエンタメなのだろう、という評価に落ち着く。

そこで、思う。
精神障害者をバカにするなと。
ある一面的なイメージだけを投影して「ステレオタイプな精神障害者」を描き上げ、彼らの苦しみを他のテーマを謳う材料としか扱わないのは、作品を世に問う人間として最低の下劣な行為だと思う。

私はたまたま精神科医療の方面にある程度の経験や知識があるのでそう感じるが、他の科の物語に関しては分からない。ガンにも不分明だし不妊治療や超未熟児のことも分からない。
だから、それらに関してはごく普通の漫画として読了した。へええ…で終わった。次はどうなるんだろう、という興味で13巻分ページをめくった。
毒にも薬にもならない商業エンターテイメント劇画。まあまあ不味くもない「brain candy」。というのが、今回の評価。
あれだけ売れてドラマにもなった作品なので、この観点では悪くない作品なのではないですか?それ以上の意味があるとは思えないけど。


【読んだ】「タナトノート-死後の世界への航行」


タナトノート―死後の世界への航行 ベルナール・ヴェルベール/榊原晃三

タナトノート=タナトス+ノート(アストロノート=宇宙飛行士などの「ノート」)=「死世界飛行士」

「死」そのものをテーマとしたエンタメSF。
軽快な筆致と破天荒なムードで、「死」をあらゆる観点から眺め回していくことのできる小説です。

百科事典的パラレルSF叙事詩としては、「ゼウスガーデン衰亡史」と同カテゴリかしら?
「ゼウス~」よりは整然としているし、「ゼウス~」では敢えて気まぐれに寄ったり引いたりしているかに見えた視点や距離感が「タナトノート」では俯瞰と定距離を崩さないので、結果的に「分量の割に軽さの適切な良エンタメ」という読後感です。

終章、アイロニーに満ちて愉快ですが、それまでのボリュームと合わせて少々だれるかな?
全体的に非常に素直さを感じる作り。ラストは賛否両論ありそうですが、そこまでずーっとごくごく素直に素直に来たことを思えば「帰着すべき場所に王道に則って帰着した」とも言え、私としては十分でした。

「蟻」などは読んでいないので何とも言えませんが、この作品に関してのみ言えば、「いまいち深まらない」食い足らなさを(テーマがテーマなだけに)感じなくもありません。が、その「食い足らなさ」を生んでいる視点(前述の”視点”ですが)そのものが伏線だと読むこともできる訳で、やっぱりこれはこれで良いのでしょう。

神話や宗教、天文学や哲学、医学生理学などなどがわんさか出てきますので、そういったビブリオテーク的刺激がお好きな方にもどうぞ。


女体礼讃

昔から、「大浴場」が苦手でした。

他人様の前に裸で出るのが、いたたまれませんでした。
どう振舞えば良いのかも分かりませんでした。

そして、特に年上の…或いは大人の…たくさんの女性達が開け広げな様子で動き回るのに非常な戸惑いを覚え、まったく身の置き所のないような気持ちになるのでした。

元来、自分が動く様子を見られるのが嫌いな子供でした。歳が上がるにつれ、その度合いは強まっていきました。
視線に曝されるのも苦手でした。ただ視線を受け止めてそこに在る、ということができず、言葉を繰っていれば安心していられるのでした。

思う考えることが生来好きで得意だったというのも手伝ったでしょうが、それを表現することによって、見られ方を制御したいという欲求の強さ・制御が可能であるという(誤った)自己防衛が、言葉を繰る動機の半分だったように、今振り返れば思います。

なぜだか知りませんが、「自分の姿はみっともない」という羞恥・自責が強かったようです。
本心本音であれ、裸の生身であれ。

後年、枕を共にした男性に体を見られることには抵抗がなくなります。
それでもやはり、大浴場は苦手でした。
すべてをさらけ出した関係の中では裸でいることも平気なのでしょう。
そして私は、「何を見られても良い」と思える関係を、長い間、恋愛にしか求めなかったのでした。

 

アロマセラピー・トリートメントをやるようになって、2つの大きなことに気が付きました。

ひとつ。女性の体はすべからく美しいということ。

うつぶせになった女性の、背中から腰、腰からお尻へと続く、まろやかかつダイナミックな曲線は、大変に美しいものです。どんな体型の女性でも必ずそうです。施術に入って、毎回はっとさせられます。
男性が女体を好むことが多いのも頷けます…この曲線は、恐らくはどんな男性も持ち得ない、女性だけの特別なものです。

そしてまた、トリートメントを施術する際、クライアントの肉体を見る目線は、身体・精神の癖や不調・停滞・過活発、また加減などを見極める、極めて冷静なものであり、そこに「スタイルの良し悪し」への判断は(私は少なくとも)全く含まれません。
その目で見ると、「その人の肉体がこう在る」ことへの畏敬の念ばかりが溢れてきます。
多少バストが豊かかそうでないか、ウェストのくびれがどの程度のものかなど、ごく瑣末な表層でしかありえません。
その人の肉体的造形は、まず人間であるということ、それから遺伝・環境・ご本人の生活ぶり・心持ちなどなどの総体として表れているものであり、そこには「この人が精いっぱい、持てる中で生きてきている」ことの証拠だけが燦然と積み上がっているのです。

もうひとつ。しかし、世の多くの女性は、トリートメントされるために脱衣することに強い抵抗を覚えるということ。

私がどんなに上のようなことを述べたところで、その抵抗・羞恥心が崩れることはありません。
それらは全く「その人自身の思い」でしかなく、対象者はほとんど関係が無いのです。

 

今日は、いわゆる「スーパー銭湯」に行ってきました。
今でも決して、寛げるだけの場所ではありません。

ですが、今日もしみじみと思いました。
やはり、どの女性の肉体も、すべからく美しい。

まだ「女」とは言えない子供ののびのびした肢体。
若い女性のきめ細かではじけるような肌。
母親である人の堂々とした乳房と腰つき。
老いた方々の年輪刻まれた体躯。
すべてに宿るのはただ「生命力」のエネルギーです。

皆、飾るものを脱ぎ捨てて、まったく同じ裸になって、それぞれにそれぞれのやり方で湯浴をする。
いいじゃないか!素敵じゃあないか!

今再読中の「一無庵風流記」の中に、「どんな人間でも死ぬときは皆同じなのが痛快だ」という意の述懐が出てきます。
それを思い出しながら、しかし、と考えました。
現代でなら、この光景だって、十二分に皆同じと言えるよなぁと。なんという平和でしょう!
そして、「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる「はだかんぼのプールの授業」では、正にこの光景この気持ちのことが語られていたのだなぁとも。

裸の付き合いなどとよく言います。
身も心も、やはりまだ「全く抵抗がない」とは言えません。
長年培った自意識の壁は、そう脆いものでもないのです。

が、初夏の日差しの露天風呂で、大らかな…あまりに大らかな…女たちの素っ裸の楽しみを眺めていると…
「すべからく美しい」の中には自分ももちろん含まれているのだよなぁと。
そして、ちょうど慶次郎のように、この人たちに交じりつつ、思うように好きに動けば良いんだよなぁと。
そんなことがしみじみ感ぜられて、子供用に山ほど泳がせてあったアヒルと存分に戯れてみたのでした。


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