2013 年 7 月

親の所得格差が子どもの教育格差に直結している現状について

「親の所得格差が子どもの学ぶ機会の格差を生む -今こそ街中に寺子屋を」(Wedge Infinity)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2959

この記事が問題としている「経済(所得格差)=教育格差」となる現状については、私もモヤモヤしている。

以前にもtwitterにて呟いたが、一億総中流時代の終焉は小泉政権当時に喝采をもって受け入れられ、以降、「所得格差=教育格差」は加速度的に所与のものとなっている。

安倍政権下でさかんに打ち出されている「教育のグローバル化」「留学推進」「英語教育」等々、個人的には「そんなに良いものか?」と疑念を抱いている。理由はいくつかあるが、本記事で考えたいことに沿ってひとつ挙げれば、「この恩恵を享受できるのは富裕層の子女だけ」で、「親の所得格差を乗り越え、子が富裕層に入る」ことをいっそう難しくしていくだけだと見ているからだ。

育英会奨学金の返済にまつわる困難・トラブルが社会問題化してきていると見受けられる言説もあったりして、どうにもこの「所得格差=教育格差」問題は、放置で良い案件ではない気がしている。

そんな折なので、上掲記事タイトルには強く興味を惹かれて開けた次第。
だが、読んでみて、一層モヤることになった。

「モヤっている」がこの記事を書く動機である。
脳内を走る全でのことを書くことはしないが、いったんここを使って書けることだけでも書いてみることを通して、考えてみようと思う。
なので、長い上にとっちらかってます。しかも検証などしてません。すみません。

 

私は現在、小さな学習塾に専従している。

弊塾には「職員室」がない。教室もひとつきり。
そして、生徒は基本的にほぼ毎日通塾する。
現在、夫と私の2人で全てを回していて、我々は毎日、生徒1人1人の学習進捗・習熟度や人間性の成長・変化、状況や体調の把握に努め、適宜声掛けや対話をする。
保護者との二者面談や、生徒本人を交えた三者面談も、業界内で比較しても相当の頻度で行い、その上に希望されれば対面や電話での面談にもいくらでも応じる。
ちょうど上掲記事で言う「ナナメの関係」が出来ているなと感じる生徒も、常時複数人はいる。
その上で、学習塾なので当然、成績の向上を図る。受験合格を図る。

我々は今現在、これに専従し、これで生計を立てている。

私個人として言えば、これらのことを全て、本業を別に抱えながらボランティアでやってくれ、と言われると、だいぶ辛い。
(夫がどう感じるかは、話し合っていないので知らない。)
片手間ではここまで出来ない。
一個の自分とは違う人格であり存在である「生徒」と、自然発生的ではないうえに深い人間関係を構築しながら向き合い、(たいていは生徒本人にとってとても嫌な)努力に向かわせ伴走する、というのは、それなりに大きなエネルギーを要する。

だが一方で、常に、生徒の家庭の経済事情と向き合っているのも事実である。
本当は、対価など気にせずに、生徒に提供してやれるもの、生徒に必要だと思われるものは何でもいくらでも提供してやりたい。

「教育に金がかかる」ことは、私にとって日常的かつ根本的なジレンマである。

教育に、それ自体は無償であっても専従できる環境づくり(労力がほぼ不要な収入源が別に出来るなど)が出来れば、全て一挙に解決である。
が、自分の、マネタイズに関する無能さ故にそこにはなかなか至れずにいる。

 

だが、一方で、「では世の中における、”対価発生”の理屈・仕組みとはなんだろう?」という疑問も出てくる。

端的に、「それで食ってればプロ」という定義がある。
これは裏を返せば、「プロの技術を受けようとすれば、対価は発生するのだ」という考え方でもある。
それでいけば、ボランティアで勉強を見てやるなどというのは、「ナナメの関係」を築くには良いかもしれないが、「教育格差是正」効果はいまひとつ信頼できない。
「義務教育分の勉強くらい、大人なら誰でも見られる」なんて大ウソだからである。
現役大学生でも、無理な人は無理だし、無理な人は山ほどいる。

対価の発生が、教える側の責任感を強化する、という側面もあるだろう。
対価を支払っていないサービスに対しては文句は言えない、という感覚は、資本主義社会で育ち生きる社会人であれば割と共有されているものであるように見受けられる。
それが「正しい」在り様かどうかは別として。

また、その「ボランティア」の選別をするのは誰か、という問いも出てくる。
ここで危惧するのは、「”善意にみえる”不特定多数のボランティア」が子供と直接接触できる場というのは、本当に利益しか生まないのか?ということだ。
子供と接触したり、子供を預かったりするときに一番恐れるのは、事故だ。それが起こってしまった時、誰がどう責任をとる?
あるいは、そのボランティアが実は善意の人ではない場合には?
通常、ボランティア絡みで何か悪いことが起こった場合、社会的な責任追及の矛先はボランティアには向かないだろう。監督者・責任者に向く。
それを引き受けるのは、一体誰だ?
金銭対価が全く発生していない場所で、責任所在を明確にするのは、一般社会においては難しい(学生サークルなら可能だろうが)。責任を負うのは「リスク」だからである。それもこの場合、非常に社会的なリスクである。
低リスク低リターンか高リスク高リターン、どちらを好むかは人それぞれだが、リスクに見合ったリターンを見込めない場所でリスクだけ取ろうとする人は、普通あまりいない。

そして。
今まで挙げたような、ネガティブな要因・リスクの他に出てくる問い。
「教育のプロ」とはなんだろう?

上掲記事で言う「教育」とは、具体的に何を指しているのだろう?
情操教育、人間教育?教科学習に関する教育?

弊塾で行う「教育」ははっきりと、「教科学習に習熟し、受験で合格すること」と、「教養をつけ、思考能力と想像力・応用力を伸ばし、自分と他者と世の中について自分の心と頭で考え、行動・努力できる人間になること」を目指している。この2つは相反しない、どころか、同時進行で相乗効果が得られる。
我々夫婦が共有している価値観の大きなものの一つがこれであり、だからこそ私たちは「生徒たちから見えない”職員室”」の無い場所で、生活と人生を載せて学習塾をやっている。
それでも、世論を様々に見ながら常々自問自答している。「教育とは一体なんだろう?」と。

だから、上掲記事の筆者に問いたい。
「ボランティアによる街中寺子屋を沢山作ろうとよびかけて、そこに集まるであろう子供たちに渡したいものは何ですか?それは、”所得格差=教育格差”問題の是正に繋がるのですか?」と。

「自分さえよければとは思えない」人々の「善意」で社会問題を何とかしよう、と言うだけの上掲記事内容は、問題解決の構造作りの端緒としてのみにおいて見ても無理があると私は思う。
美しくはあるが、現実的には少なくとも「決め手」になるとは思えない。

マインドはともかく経済の仕組みとしては明らかに資本主義社会である日本で、教育だけをカネの流れから完全に独立させるのは不可能だ。
そして、「所得格差=教育格差」というのはつまり、そのカネの流れに大きく乗れる保護者の子供が、対価分だけの「プロの技術」を享受できる、ということに他ならない。
金銭対価によって、技術を磨く必要に迫られ、責任放棄を難しくさせられている社会人或いは法人・団体を相手に、善意だけで十分対抗できたという例が一般的になるとは到底思えない。
教育を「安かろう悪かろう」にしないためには、携わる人間の技術は必要不可欠なのだ。

この方法を「所得格差=教育格差」状態の是正に繋ぐとしたら。
法人(恐らくはNPO法人になるだろうが)が社会的責任を担って運営・統括・推進し、かつその営みが広く一般に知られる程度には知名度を得ることだろう。そこでは行政へのロビイイングも含めた様々な運動が必要だろうし、大勢のボランティアを、技術的に訓練させ、継続的に束ね動かす人材マネジメント的スキルが必須だろう。また、寄付を募る・基金やファンド(クラウドファンディング的な緩いイメージであって、経済金融で言う「投資ファンド」ではない)を創る、或いは全く別のマネタイズ手段を編み出すなど、別口からの金銭収入の確保も必要だろう。
壮大だ。壮大だが、社会問題を何とかしようとすれば、いきおい壮大にならざるを得ないのだろうなぁ。

と、今はここまで。
もう少し考えてみる。


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