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親の所得格差が子どもの教育格差に直結している現状について

「親の所得格差が子どもの学ぶ機会の格差を生む -今こそ街中に寺子屋を」(Wedge Infinity)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2959

この記事が問題としている「経済(所得格差)=教育格差」となる現状については、私もモヤモヤしている。

以前にもtwitterにて呟いたが、一億総中流時代の終焉は小泉政権当時に喝采をもって受け入れられ、以降、「所得格差=教育格差」は加速度的に所与のものとなっている。

安倍政権下でさかんに打ち出されている「教育のグローバル化」「留学推進」「英語教育」等々、個人的には「そんなに良いものか?」と疑念を抱いている。理由はいくつかあるが、本記事で考えたいことに沿ってひとつ挙げれば、「この恩恵を享受できるのは富裕層の子女だけ」で、「親の所得格差を乗り越え、子が富裕層に入る」ことをいっそう難しくしていくだけだと見ているからだ。

育英会奨学金の返済にまつわる困難・トラブルが社会問題化してきていると見受けられる言説もあったりして、どうにもこの「所得格差=教育格差」問題は、放置で良い案件ではない気がしている。

そんな折なので、上掲記事タイトルには強く興味を惹かれて開けた次第。
だが、読んでみて、一層モヤることになった。

「モヤっている」がこの記事を書く動機である。
脳内を走る全でのことを書くことはしないが、いったんここを使って書けることだけでも書いてみることを通して、考えてみようと思う。
なので、長い上にとっちらかってます。しかも検証などしてません。すみません。

 

私は現在、小さな学習塾に専従している。

弊塾には「職員室」がない。教室もひとつきり。
そして、生徒は基本的にほぼ毎日通塾する。
現在、夫と私の2人で全てを回していて、我々は毎日、生徒1人1人の学習進捗・習熟度や人間性の成長・変化、状況や体調の把握に努め、適宜声掛けや対話をする。
保護者との二者面談や、生徒本人を交えた三者面談も、業界内で比較しても相当の頻度で行い、その上に希望されれば対面や電話での面談にもいくらでも応じる。
ちょうど上掲記事で言う「ナナメの関係」が出来ているなと感じる生徒も、常時複数人はいる。
その上で、学習塾なので当然、成績の向上を図る。受験合格を図る。

我々は今現在、これに専従し、これで生計を立てている。

私個人として言えば、これらのことを全て、本業を別に抱えながらボランティアでやってくれ、と言われると、だいぶ辛い。
(夫がどう感じるかは、話し合っていないので知らない。)
片手間ではここまで出来ない。
一個の自分とは違う人格であり存在である「生徒」と、自然発生的ではないうえに深い人間関係を構築しながら向き合い、(たいていは生徒本人にとってとても嫌な)努力に向かわせ伴走する、というのは、それなりに大きなエネルギーを要する。

だが一方で、常に、生徒の家庭の経済事情と向き合っているのも事実である。
本当は、対価など気にせずに、生徒に提供してやれるもの、生徒に必要だと思われるものは何でもいくらでも提供してやりたい。

「教育に金がかかる」ことは、私にとって日常的かつ根本的なジレンマである。

教育に、それ自体は無償であっても専従できる環境づくり(労力がほぼ不要な収入源が別に出来るなど)が出来れば、全て一挙に解決である。
が、自分の、マネタイズに関する無能さ故にそこにはなかなか至れずにいる。

 

だが、一方で、「では世の中における、”対価発生”の理屈・仕組みとはなんだろう?」という疑問も出てくる。

端的に、「それで食ってればプロ」という定義がある。
これは裏を返せば、「プロの技術を受けようとすれば、対価は発生するのだ」という考え方でもある。
それでいけば、ボランティアで勉強を見てやるなどというのは、「ナナメの関係」を築くには良いかもしれないが、「教育格差是正」効果はいまひとつ信頼できない。
「義務教育分の勉強くらい、大人なら誰でも見られる」なんて大ウソだからである。
現役大学生でも、無理な人は無理だし、無理な人は山ほどいる。

対価の発生が、教える側の責任感を強化する、という側面もあるだろう。
対価を支払っていないサービスに対しては文句は言えない、という感覚は、資本主義社会で育ち生きる社会人であれば割と共有されているものであるように見受けられる。
それが「正しい」在り様かどうかは別として。

また、その「ボランティア」の選別をするのは誰か、という問いも出てくる。
ここで危惧するのは、「”善意にみえる”不特定多数のボランティア」が子供と直接接触できる場というのは、本当に利益しか生まないのか?ということだ。
子供と接触したり、子供を預かったりするときに一番恐れるのは、事故だ。それが起こってしまった時、誰がどう責任をとる?
あるいは、そのボランティアが実は善意の人ではない場合には?
通常、ボランティア絡みで何か悪いことが起こった場合、社会的な責任追及の矛先はボランティアには向かないだろう。監督者・責任者に向く。
それを引き受けるのは、一体誰だ?
金銭対価が全く発生していない場所で、責任所在を明確にするのは、一般社会においては難しい(学生サークルなら可能だろうが)。責任を負うのは「リスク」だからである。それもこの場合、非常に社会的なリスクである。
低リスク低リターンか高リスク高リターン、どちらを好むかは人それぞれだが、リスクに見合ったリターンを見込めない場所でリスクだけ取ろうとする人は、普通あまりいない。

そして。
今まで挙げたような、ネガティブな要因・リスクの他に出てくる問い。
「教育のプロ」とはなんだろう?

上掲記事で言う「教育」とは、具体的に何を指しているのだろう?
情操教育、人間教育?教科学習に関する教育?

弊塾で行う「教育」ははっきりと、「教科学習に習熟し、受験で合格すること」と、「教養をつけ、思考能力と想像力・応用力を伸ばし、自分と他者と世の中について自分の心と頭で考え、行動・努力できる人間になること」を目指している。この2つは相反しない、どころか、同時進行で相乗効果が得られる。
我々夫婦が共有している価値観の大きなものの一つがこれであり、だからこそ私たちは「生徒たちから見えない”職員室”」の無い場所で、生活と人生を載せて学習塾をやっている。
それでも、世論を様々に見ながら常々自問自答している。「教育とは一体なんだろう?」と。

だから、上掲記事の筆者に問いたい。
「ボランティアによる街中寺子屋を沢山作ろうとよびかけて、そこに集まるであろう子供たちに渡したいものは何ですか?それは、”所得格差=教育格差”問題の是正に繋がるのですか?」と。

「自分さえよければとは思えない」人々の「善意」で社会問題を何とかしよう、と言うだけの上掲記事内容は、問題解決の構造作りの端緒としてのみにおいて見ても無理があると私は思う。
美しくはあるが、現実的には少なくとも「決め手」になるとは思えない。

マインドはともかく経済の仕組みとしては明らかに資本主義社会である日本で、教育だけをカネの流れから完全に独立させるのは不可能だ。
そして、「所得格差=教育格差」というのはつまり、そのカネの流れに大きく乗れる保護者の子供が、対価分だけの「プロの技術」を享受できる、ということに他ならない。
金銭対価によって、技術を磨く必要に迫られ、責任放棄を難しくさせられている社会人或いは法人・団体を相手に、善意だけで十分対抗できたという例が一般的になるとは到底思えない。
教育を「安かろう悪かろう」にしないためには、携わる人間の技術は必要不可欠なのだ。

この方法を「所得格差=教育格差」状態の是正に繋ぐとしたら。
法人(恐らくはNPO法人になるだろうが)が社会的責任を担って運営・統括・推進し、かつその営みが広く一般に知られる程度には知名度を得ることだろう。そこでは行政へのロビイイングも含めた様々な運動が必要だろうし、大勢のボランティアを、技術的に訓練させ、継続的に束ね動かす人材マネジメント的スキルが必須だろう。また、寄付を募る・基金やファンド(クラウドファンディング的な緩いイメージであって、経済金融で言う「投資ファンド」ではない)を創る、或いは全く別のマネタイズ手段を編み出すなど、別口からの金銭収入の確保も必要だろう。
壮大だ。壮大だが、社会問題を何とかしようとすれば、いきおい壮大にならざるを得ないのだろうなぁ。

と、今はここまで。
もう少し考えてみる。


女体礼讃

昔から、「大浴場」が苦手でした。

他人様の前に裸で出るのが、いたたまれませんでした。
どう振舞えば良いのかも分かりませんでした。

そして、特に年上の…或いは大人の…たくさんの女性達が開け広げな様子で動き回るのに非常な戸惑いを覚え、まったく身の置き所のないような気持ちになるのでした。

元来、自分が動く様子を見られるのが嫌いな子供でした。歳が上がるにつれ、その度合いは強まっていきました。
視線に曝されるのも苦手でした。ただ視線を受け止めてそこに在る、ということができず、言葉を繰っていれば安心していられるのでした。

思う考えることが生来好きで得意だったというのも手伝ったでしょうが、それを表現することによって、見られ方を制御したいという欲求の強さ・制御が可能であるという(誤った)自己防衛が、言葉を繰る動機の半分だったように、今振り返れば思います。

なぜだか知りませんが、「自分の姿はみっともない」という羞恥・自責が強かったようです。
本心本音であれ、裸の生身であれ。

後年、枕を共にした男性に体を見られることには抵抗がなくなります。
それでもやはり、大浴場は苦手でした。
すべてをさらけ出した関係の中では裸でいることも平気なのでしょう。
そして私は、「何を見られても良い」と思える関係を、長い間、恋愛にしか求めなかったのでした。

 

アロマセラピー・トリートメントをやるようになって、2つの大きなことに気が付きました。

ひとつ。女性の体はすべからく美しいということ。

うつぶせになった女性の、背中から腰、腰からお尻へと続く、まろやかかつダイナミックな曲線は、大変に美しいものです。どんな体型の女性でも必ずそうです。施術に入って、毎回はっとさせられます。
男性が女体を好むことが多いのも頷けます…この曲線は、恐らくはどんな男性も持ち得ない、女性だけの特別なものです。

そしてまた、トリートメントを施術する際、クライアントの肉体を見る目線は、身体・精神の癖や不調・停滞・過活発、また加減などを見極める、極めて冷静なものであり、そこに「スタイルの良し悪し」への判断は(私は少なくとも)全く含まれません。
その目で見ると、「その人の肉体がこう在る」ことへの畏敬の念ばかりが溢れてきます。
多少バストが豊かかそうでないか、ウェストのくびれがどの程度のものかなど、ごく瑣末な表層でしかありえません。
その人の肉体的造形は、まず人間であるということ、それから遺伝・環境・ご本人の生活ぶり・心持ちなどなどの総体として表れているものであり、そこには「この人が精いっぱい、持てる中で生きてきている」ことの証拠だけが燦然と積み上がっているのです。

もうひとつ。しかし、世の多くの女性は、トリートメントされるために脱衣することに強い抵抗を覚えるということ。

私がどんなに上のようなことを述べたところで、その抵抗・羞恥心が崩れることはありません。
それらは全く「その人自身の思い」でしかなく、対象者はほとんど関係が無いのです。

 

今日は、いわゆる「スーパー銭湯」に行ってきました。
今でも決して、寛げるだけの場所ではありません。

ですが、今日もしみじみと思いました。
やはり、どの女性の肉体も、すべからく美しい。

まだ「女」とは言えない子供ののびのびした肢体。
若い女性のきめ細かではじけるような肌。
母親である人の堂々とした乳房と腰つき。
老いた方々の年輪刻まれた体躯。
すべてに宿るのはただ「生命力」のエネルギーです。

皆、飾るものを脱ぎ捨てて、まったく同じ裸になって、それぞれにそれぞれのやり方で湯浴をする。
いいじゃないか!素敵じゃあないか!

今再読中の「一無庵風流記」の中に、「どんな人間でも死ぬときは皆同じなのが痛快だ」という意の述懐が出てきます。
それを思い出しながら、しかし、と考えました。
現代でなら、この光景だって、十二分に皆同じと言えるよなぁと。なんという平和でしょう!
そして、「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる「はだかんぼのプールの授業」では、正にこの光景この気持ちのことが語られていたのだなぁとも。

裸の付き合いなどとよく言います。
身も心も、やはりまだ「全く抵抗がない」とは言えません。
長年培った自意識の壁は、そう脆いものでもないのです。

が、初夏の日差しの露天風呂で、大らかな…あまりに大らかな…女たちの素っ裸の楽しみを眺めていると…
「すべからく美しい」の中には自分ももちろん含まれているのだよなぁと。
そして、ちょうど慶次郎のように、この人たちに交じりつつ、思うように好きに動けば良いんだよなぁと。
そんなことがしみじみ感ぜられて、子供用に山ほど泳がせてあったアヒルと存分に戯れてみたのでした。


学びで獲得する自由とは何か。

梅雨が明けた旨の宣言が出されたとのこと。
ちょうど本日7/17、京都では、祇園祭のハイライト・山鉾巡行と神幸祭が行われたので、人口に膾炙してる通りの梅雨明けになりました。
京都住まいの頃は、梅雨に入ると祇園祭を心待ちにしたものでした。

 

「問い:何故学ぶのか? -答え:自由になるため」というブログ記事を拝読しました。

この中の一文「彼らは精神の暗闇の中に閉じ込められていた。」
この「精神の暗闇」という言葉は「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」でも見かけたように思います。

ヘレン・ケラーが「精神の暗闇」から抜けだしたのは、言葉の存在と機能を知ったことによるのだとは、よく知られたことでしょう。
上掲ブログに描かれたフレデリック・ダグラスの物語にも、また同様のことが記されています。

この2人に起こった「奇跡」はまさにドラスティックに2人の人生を変えた訳です。

翻って、現代日本の子供たち、或いはある程度の年齢の大人まで含めて、どれほどの人がこの「学ぶ」ことの根源的な感動を知り理解しているのでしょうか。

私は上掲タイトルの言葉にある「自由になるため」に、「奴隷状態から抜け出す」以上の意味を見ます。
「人間は、その持てる語彙を超えて思考することはできない」
語彙とは定義であり、定義は思考・思想の枠組みから生まれます。
「自由になる」とは、 「自由自在にものを見、捉え、生み出すことができる」ことだと思います。

日本は、世界規模で見れば今でもやはり、教育水準の高い部類に入ると思います。
教育の在り様への批判は強く、方向方針から方法まで、様々に議論されていますが、少なくとも在野での多くは「今行われているものはダメだ」 というアンチにとどまっているように見えます。
これは、とても贅沢な事象です。

子供たちはしょっちゅう、「なんでこんなん勉強せなあかんの?」と問います。
やがては「偏差値教育/受験教育なんてダメだ」と考える大人へと成長していくのでしょう。

彼らは、「精神の暗闇」で言葉に(或いは学問に)飢えた経験がありません。
そして、それらが得られる歓びを、小学校も中学年になれば忘れているように見えます。

彼らにとって、勉強とは、当為のものであり所与のものであり、自らへの自由を奪い苦役を課すものでしかありません。

学ぶことに飢えずに済む環境は、幸せです。
ですが、学ぶことに根本的な幸福を感じることなく成長していくのは、不幸なことだと思います。

 

「読み・書き・そろばん」ができればそれで良いんでしょう?という考え方もあるとは思います。
中学生にもなれば、子供たちは「こんなん、絶対これから使わへんもん」「嫌いやから、自分は絶対こんなん使わんと生きていくもん」と言います。
そこにあるのは、「目の前のことに対処できるだけの最低限の知識があれば、それで良いんでしょう?」という問いかけです。

しかし実は、小学生の算数の中ですら、何段階かの「抽象思考への飛躍」を求められています。
まずは、「数字」というものがあるのだ、ということ。
次に、「0(ゼロ)」という概念の導入。
もう、挙げ出すとキリがないので、やめておきます。

抽象思考とは、目の前に存在しないもの、或いは世界に実体を持って存在しないものを「在る」と仮定して論理的に思考する作業のことを言うのでしょう。
たとえば「道徳観念」というものも、ここに入れられます。「命の大切さ」などというものも、広くとればここでしょう。
当たり前に発話されているように見える沢山のことが、実は抽象思考に支えられていて、この力は訓練次第で伸びていくものです。
そして実は、精神・身体の発達段階において、適切な時期に適切に伸ばすのがベターな能力でもあると思います。

 

抽象思考は、人を、「見えるもの・手に取れるものしか見えないし理解できない」状態から「自由」にします。
自らの思考能力を高めること・外側にある思考の枠組みを取り入れることを可能にすること。

外部の何かが何を言っているのか、自分の言葉で余すところなく理解できるということ。
自分のモヤモヤっとした何かを、他者に余すところなく伝えることが出来るように、共通認識の土俵に立ってそこで使われる言葉の意味と定義を正しく用いられること。
それは「精神の自由」です。

子供たちが、その自由を獲得するために勉強しているのだと、それは歓びであり「より幸せ」へ向かう方法なのだと、理解してくれたら良いなぁと思います。
苦役の先には「合格」などと陳腐なものでない……しかし結果的に「合格」をもたらす……楽しさと歓びがあるのだと 気付かせてやりたいなぁと思います。
そのために、日々自分は、現実的に何をできるのか、方法の模索は続きます。

 


【仕事】パワーストーン・ブレスレット オーダー納品

久しぶりに、天然石ブレスレットのオーダーを戴き、先日納品しました。

 

今回は、こんな仕上がり。

大きなピンク色の石は、ローズクオーツ。14mmの玉です。
他、エンジェライト、ロードナイト、ハウライト、アンバーの組み合わせ。

珍しく、天然石以外のものも組み込まれましたので、アクセサリー感の高いブレスレットになりました。

 

私がオーダーを受ける場合、ご予算とサイズ(手首径)以外の情報は必須ではありません。
勿論、ご希望の「効果」や色、石、デザインなど、あればお訊きしますが、必ずしも必要ではないです。
お名前も(製作には)必要ではないと言って驚かれたことがあります(笑)。
さすがにまだ経験はないですが、性別も多分あまり必要でないと思います。

石の選定から配置、向きまで、全てチャネリングで製作しますので、どんなものになるか、ゴムを通すまで私にも分かりません。

ブレスレットの形に仕上がると、そのブレスレット特有のエネルギーがぱぁーっと現れるのが、毎回楽しみです♪

オーダー下さった方ご自身のお手元に無事届き、着けられると、私も驚くほど石が活き活きするのが、私の作るブレスレットの特徴だと思います。
ブレスレットの完成は、お客様が着けられたとき、なのですね~。

リペアで戻ってきた石を見ても、ものすごくよく「働いている」のが分かるので嬉しいです。生命が感じられる、というような。

 

余談ですけれども。

石は、それそのものでもそれぞれ固有の波動を持ち、個性を持っていて、生き死にや元気・不健康もあります。
が、持ち主のエネルギーの影響を強く受けて変化もします。

植物でしたら、それ自身で生長もしますし死にもします。
石は、育つにもとてもゆっくりですし、もちろん磁場や土地のエネルギーのようなものを受けないことはありませんが、どこかやはり静かでゆっくりで、落ち着いた、地球的・大地的な…「変化」と人に感じられるほど「速く」ない…波動が、その身上なのでしょうね。

そういう性質を持つ「鉱物」が、人間の、とても速く強い、変化のエネルギーに影響されて、性質を力強く発し始める、というのが、とても面白く感じられます。

 

そんな訳で、きっと今回のブレスレットも、お客様の許で、私が知らないような姿を見せているんだろうなぁと思います。
想像すると嬉しいですね♪

 

ブレスレットの形に組み上がったら、対面で渡せない場合には、詳細な解説書を添付します。
上で書いたようなプロセスを踏むので、カードを読むときと同じように、この石この配置の解説を詳述します。
また、手入れ等の方法もお伝えします。

この「解説書を書く」段階では、ブレスレット製作時よりは左脳を使いますが、タロットなどと同じように「卦を読む」という感覚なので、とても楽しい作業でもあります。
ここまで来てようやく私にも「ああ、こういうことなんだなぁ」と諒解されることが多く、気持ちも落ち着きます。

 

「その人のために作る」というのが好きなので、どんどん製作して売るということはしていません。
オーダーを戴いたそのときに、その方のためだけに精緻に組む、というやり方ばかりで何年も来ています。

なので、天然石ブレスレット専門でやってらっしゃる方に比べると、どうしても機会は少なくなります。
今回、久しぶりに機会を戴いて、大変楽しかったです♪♪感謝ですね!本当にありがたい限りです。

もう少し、石と遊ぶ機会自体は増やしたいので、何か良い方法はないかしら…と考えている最中です。

 

*個人に繋がる一切の情報を伏せる、という条件で、今回掲載をご了解戴きました。


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