読んだ

【読んだ】沢村貞子の献立日記

私の沢村貞子好きを知る家人が、プレゼントを買ってきてくれました。

新潮社「とんぼの本」シリーズの「沢村貞子の献立日記」です。

20歳そこそこの頃からずっと、沢村貞子さんがすごく好きです。
エッセイはほぼ読まないのですが、この人の本はとても好きで、多分ほとんど読んでいると思います。

この本には、「わたしの台所」「わたしの献立日記」などに散在しているレシピがまとまっていて(カラー写真つき)、ありがたいです。
これを読んでいると、「これは作ってみよう」「他のいろいろも書き抜いていこうかしら」などと夢が広がりますね。

また巻頭の黒柳徹子さんの文章がとてもいい!
「窓ぎわのトットちゃん」も大好きで、そのほかの本も何冊か読みましたが、この方も本当にいい文章を書かれますね。この巻頭文は一読に値すると思います。
その中では、ご主人大橋恭彦さんの文章も引用されていてひと粒で二度おいしいです。
なんというか…やはり、教養高い人の周りにはそういう人が集まるのだなぁと、白洲夫妻にも感じる同じことを思います。

12、13ページには献立日記全36冊がカラー写真で並んでいます。
沢村さんの文章では「粗末な大学ノートを、古い民芸カレンダーでくるむ」とあるだけだったのですが、どうしてどうしてものすごく素敵!ほとんどが芹澤銈介の絵歴だそうですが、いやいや本当に素敵なのです。
あれでもないこれでもないと高価なノートを買い漁る自分の方がよほど野暮だと思わされます。

94ページの篠山紀信撮影のポートレートが本当によくて、なんと美しい方なんだろう、やはり「顔は自分で作るもの」とは本当なんだなぁとため息が出ます。

 

沢村貞子さんは、私が演劇をやっていた当時芝居に関わる本を手当たり次第に読んでいた中で出会ったのが最初です。
とは言っても、私の年齢では女優としてご活躍の当時は知らず、よって名前を見てもまったくぴんと来ず、読んでいってしばらくして、亡くなった当時ニュースで流れていた引退会見に感銘を受けたあの人だ!と思い至ったのでした。

私が期待していた「演技論」のようなものはほぼ無く…強いて言えば、職業女優として脇役をきっちりやろうと決心なさった当時のエピソードくらいでしたか…、引退されて以降の日々の随筆ばかりですが、その姿勢や言葉づかい、心持ち、暮らしぶり等々…に感嘆するやら憧れるやら。
穏やかで心地よい文章と裏腹に、あの引退会見のきっぱりと清々しくも「(関西人の思い描く)江戸っ子気質」そのままの気持ちよさ。

演劇はしばらくしてやめてしまいましたが、その後10年以上、お勤めを始めては社会での身の処し方振る舞い方受け取り方に、結婚に憧れてはその暮らしぶりや夫との関係のありように、着物にハマってはその縞へのこだわりと着付け方着こなし方にと、「沢村貞子はこうしてた」がいつも私の心の中にあるように思います。

紆余曲折経て無事結婚し2人分の食事を作るようになって、包丁を握れば沢村貞子さんのエピソードが頭をよぎります。
(ついでにお掃除の仕方も。)

元々料理や家事など本当に苦手でやっていなかったのですが、そんな自分でもやはり憧れは「沢村貞子的暮らし」。
今のところなんとか出来てるのは、「出来合いのもの(冷凍食品やレトルトなど)は使わない」かな…「常備菜をいつも用意しておく」は、疲れた疲れたと怠け心に負けてなかなかいつもとはいきません。
が、少しずつ、少しずつでも、「まめまめしく丁寧に暮らしを守る」自分に作り変えていけたらいいなと、亀の歩みを守っています。

 

この本の随所に、沢村さんご自身の本からの文章が引用されています。
沢村さんの本は、ほんとうに何度も何度も繰り返し繰り返し手にとっているので、「ああ、これはあの文章の中のエピソードだ」などと近しい気持ちで、しかし良さを改めて新鮮に感じながら読んでいます。

こんな風に自分を作っていけたらいいなぁと、長い間ずっと持っている憧れをまた新たにしつつ、沢村貞子さんのしていたように、私も家人と寄り添い向き合い、家人のためにご飯を作り掃除洗濯をし、目の前や足元にある「暮らし」を大切にそしてさらに豊かにしていこうと思うのです。

 


【読んだ】ブラックジャックによろしく(1~13巻)

「差別」問題って難しいよね。
…と、いつも思うことを、「ブラックジャックによろしく」で再確認。

「差別は人を傷つけるからいけない」それはそうなんだが、被差別者当人が感じる「差別」にはもっと具体的なことも含まれる。
就業とか各種免許取得とか家探しとか結婚とかその他日常生活を営む上でのいろいろな具体的な困難や不利益。

それらが変わるには、人を啓蒙し理解を促し「同じ人間だ」という心根をつけ…etc.
確かにそうなんだが、そういう風に「気持ちが変わる・見方が変わる」ことが起きれば、勝手に社会は変わるのかというとそういう訳でもない。
なので、社会を変える=法規制や運営システムを変えることと両輪で回すことを、活動されてる方なら誰でも考えるだろう。
「世の中そういうもの」と思われるような状況になれば、人の意識は勝手に変わるというのもまた真なので。

しかし、これを積極的にやろうとすると「権利」の理屈を使わざるを得ない。
ここで「強硬に権利を主張して奪いとろうとする」と、(あるいはそうしようとしていると判断されると、)反発が起きる。
「変わることを求められている側」は「変わりたくない」…それが既得権益の毀損を恐れるためであっても、単に「人間は変化を強いられるのが嫌いだ」という点からの防衛反応であっても。
そして、やがて勝ち得た権利を受益するのであろう側すら、強硬手段によって、(一時的にでも)非難や批判が集中する状況に陥るのを恐れる。

「差別」というのはとても社会的な問題で、社会では自他の損得が拮抗する。

たとえば、企業における障害者のための雇用枠の存在。
この枠を満たすと企業にはお金が入る。
結果的に障害者雇用の道が開かれる。
ここまではいい。

必要となる「障害者」の認定には3つの種類がある。知的、身体、精神。
この中で、身体障害者の方が、精神障害者よりも、この雇用枠の恩恵を享受できる可能性が高い。
身体障害者はIQにも問題がないし、心や性格の方にも問題がない。物理的な困難へのサポートは必要となるであろうが、雇えばちゃんと出社するだろうし、話も通じるだろう。精神障害者はそこが「アテにならない」。来るか来ないか分からないし、急に途中で帰ったりするかもしれないし、それを(「障害者枠」で雇ってしまっているから)咎めることもできない。結果、払う人件費に見合うだけのパフォーマンスが得られるかどうか分からない。が、雇う以上は「アテにならないから責任ある仕事は任せられない」とも言えない…そんなことをすれば早晩「ブラック」と騒ぎ立てられるだろう。

という話があったりする。統計は知らないし、権威や学識ある論説なのかどうかも知らない。ただ「そういうものだ」と常識的なるものと語られる精神科医療の現場をいくつも知ってるだけだ。

これは、障害者の中でも特に精神障害者が差別されている、という事例なのだろうか?
YES、とも言える。精神障害者は「病気になっただけの人」であるので、雇用に関してこのような格差を設けられ結果的に不利益を被るいわれはない。彼らにも、自立して生計をたて、人生を営む権利がある。
が、NO、とも言える。たとえば…自分の都合で会社に来たり来なかったりする人間は、企業にとっては人材価値として低い。利潤追求とそれを通した社会貢献が本題であるのが民間企業で、その使命を果たす活動に参加し、貢献した分給料を払われるのが被雇用者。そこで信頼を得られない人間は雇わない、というのは健常者であっても同じこと。「勝手に休むバイトならクビにするでしょう?」というのは企業側の理屈としてはもっともだ。…あるいは…「いや、しかし病のために一時的にそのような状態になっているだけの人なのだから、むしろチャンスの場を作るべきだ」というのなら、本書でさんざん言われる「精神障害者は可哀想」という「差別的目線」と何が違うのか、という理屈を持ちだすこともできる。…などなど。

私には、このどちらに与すべきなのか分からない。

結局、民主主義社会の中では、人心の多数決の問題に帰するので、やはり意識啓発啓蒙と事例づくりによって「社会を変える」のが一番実効性のある方法なのだろう。
この「事例づくり」の地道な努力の部分が全く描かれていなかったことによって、「ブラックジャックによろしく」精神科編の説得力は著しく下がる。まあ、もっといえば、統合失調症のみにケースを絞った時点で、「精神障害者への差別問題」への説得力はほとんど無いに等しいのだが。
なので恐らくは、「差別問題」をテーマとして取り上げた、「人間の命の重さ」のみを謳うエンタメなのだろう、という評価に落ち着く。

そこで、思う。
精神障害者をバカにするなと。
ある一面的なイメージだけを投影して「ステレオタイプな精神障害者」を描き上げ、彼らの苦しみを他のテーマを謳う材料としか扱わないのは、作品を世に問う人間として最低の下劣な行為だと思う。

私はたまたま精神科医療の方面にある程度の経験や知識があるのでそう感じるが、他の科の物語に関しては分からない。ガンにも不分明だし不妊治療や超未熟児のことも分からない。
だから、それらに関してはごく普通の漫画として読了した。へええ…で終わった。次はどうなるんだろう、という興味で13巻分ページをめくった。
毒にも薬にもならない商業エンターテイメント劇画。まあまあ不味くもない「brain candy」。というのが、今回の評価。
あれだけ売れてドラマにもなった作品なので、この観点では悪くない作品なのではないですか?それ以上の意味があるとは思えないけど。


【読んだ】「タナトノート-死後の世界への航行」


タナトノート―死後の世界への航行 ベルナール・ヴェルベール/榊原晃三

タナトノート=タナトス+ノート(アストロノート=宇宙飛行士などの「ノート」)=「死世界飛行士」

「死」そのものをテーマとしたエンタメSF。
軽快な筆致と破天荒なムードで、「死」をあらゆる観点から眺め回していくことのできる小説です。

百科事典的パラレルSF叙事詩としては、「ゼウスガーデン衰亡史」と同カテゴリかしら?
「ゼウス~」よりは整然としているし、「ゼウス~」では敢えて気まぐれに寄ったり引いたりしているかに見えた視点や距離感が「タナトノート」では俯瞰と定距離を崩さないので、結果的に「分量の割に軽さの適切な良エンタメ」という読後感です。

終章、アイロニーに満ちて愉快ですが、それまでのボリュームと合わせて少々だれるかな?
全体的に非常に素直さを感じる作り。ラストは賛否両論ありそうですが、そこまでずーっとごくごく素直に素直に来たことを思えば「帰着すべき場所に王道に則って帰着した」とも言え、私としては十分でした。

「蟻」などは読んでいないので何とも言えませんが、この作品に関してのみ言えば、「いまいち深まらない」食い足らなさを(テーマがテーマなだけに)感じなくもありません。が、その「食い足らなさ」を生んでいる視点(前述の”視点”ですが)そのものが伏線だと読むこともできる訳で、やっぱりこれはこれで良いのでしょう。

神話や宗教、天文学や哲学、医学生理学などなどがわんさか出てきますので、そういったビブリオテーク的刺激がお好きな方にもどうぞ。


筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」が面白すぎた件について。

しばらく、平野啓一郎「決壊」を読み耽っていて、読了後にはとんでもない感銘に打たれ、小説世界が体から抜けず、何か書こうと思っていたのですが。

筒井康隆翁がラノベを執筆、1カ月で3刷というのに「ガタっ!」。
本日Amazonより届き、一気に読みました。
筒井ファンにはたまらない面白さだったので、順位繰り上げで先にこちらの感想を書いておく次第。

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いやー、筒井ですよ。まったく筒井ですよ。
サイコーですよ、ほんと。

「小説内コピペ」のリフレインすら、メタラノベの伏線になっていたり。
全体を覆う、あまりに稚拙な文章表現と展開は、明らかに「ラノベ作家」への毒であり叱責なんだろうなぁ。(それは、最初の2ページで示されています。)
意図的な「性の過剰」(しかも別に「エロ」くない)それ自体がラノベ業界への痛烈な批判であると受け取れたり。
ついでに自作「時をかける少女」をネタにひっかけるけどそれすら「使い捨て」る感じとか。

最後の社会批判はむしろ「優良図書」的清潔さへの疑義でしょうね。うそつけと。
なんというか、ラノベどころか、昨今の出版業界やコンテンツ業界全体への批判とすら…勘ぐれば最早「ポップカルチャー」批判あるいは「文化批判」ではないかとすら…読めてしまうのが、もう本当に面白い。

後半は懐かしいスラップスティックの様相を呈していきますが、それが「あえて甘い」のもいい。
決して「ラノベ読者向きにした」のではないだろうなぁと、私は思ってしまいます。
あとがきで「ラノベ読者を少しでも自分の作品に誘導できればいい」なんて書いていますけど、「そんなんまさに”言うてるだけ”やん!」と突っ込みを。

私はライトノベルを全く読まない(「十二国記」をラノベから外せるのなら、ですが)のですが、むしろ、「食わず嫌いのラノベ読まず」を返上し、「類似点」を探し、より筒井翁の意図を汲む(あるいは深読みして楽しむ)ために「涼宮ハルヒ」を読んでみたくなりました。
…つまり、私のような者への批判でもあるのでしょう!

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筒井翁というのは、徹底して計算し尽くす作家だと、私は認識しています。
彼の作品に「分からないけどそうなっちゃった」的な箇所は一切ない。
すべてが「術」。すべてが厳密。
よって、「これって、どうなんさ~?ぬるくね?」と感じる箇所には必ず、そう感じさせようとする意図がある、と考えるのが、筒井作品を読むときにとるべき姿勢だと私は考えています。

非常に信頼できる厳密さ。ある時期までは「厳密につくりあげるための習作」なのだろうなぁと思われる作品群が存在するのは確かですが、それ以降は「土台が完成された上で、次々に新しい挑戦」に取り組み、それが新しい試みであるからこそまた「より精度を高く」という、作家としての自己修練のようなもの?に自ずと取り組むことに繋がったのだろうなぁと思います。

結果的に、恐ろしいような筆力を蓄え、まさに「変幻自在で的確すぎる名文」が書けるのが筒井翁であり、たとえば「わたしのグランパ」はそれを素直に幸せに楽しめます。

また、筒井翁は「違うものは違う」「ダメなものはダメだ」とはっきり…ときに非常に口悪く…言う、けれどもとてもやわらかなハートを持ち続けている方だと常々感じています。
非常に自己に厳しい一面がありつつ、でも感情や情や遊び心もたっぷりある。
私が筒井作品に惹かれ続けるのはそのためです。

すべてが計算、けれども熱い。
怒らせると大変、でも優しい。
様々な視点から「いまいちど自省する」ことを促される、けどSFやエンタメとして十分楽しい。
そして、もはや「神」の手練れ。
それらが当たり前に生み出す奥行きと豊かさ、けれども表面上ちっとも「美しくない」(笑)

「ビアンカ・オーバースタディ」は、そういう筒井作品らしさがぎゅっと濃縮された作品のひとつに数えていいと、私は思いました。

筒井作品にあたるときには、「さあ、今から筒井康隆の掌の上に乗るぞ!」という「モード切り替え」が必要であり、しかしこれがこの上ない愉楽であるという、私は正に「骨抜きのファン」です(笑)。
信者と呼ばれても構いません。喜んで受けます。
なんて思いを一層強くしました。

筒井作品には決して裏切られませんね!

だいたい、どこの「巨匠」が「ラノベ」に参入しますか?!
「大家」と呼ばれる作家諸氏はいくらでも思いつく訳ですが、今から「ラノベ」を書こうなんて人は筒井康隆以外に思いつきません。
そこにまず痺れますね。
御大自ら、やっちゃうところがすごい。
そこに竦み上がらないラノベ作家は、もう消えて良いんだろうなという気が、自動的にしてしまいます。
でも、社会のいろいろな局面で自ら飛び込み奮闘して自家薬籠中のものとされてきた御大ですから、「ちょっと俺が出ていってやれば、いろいろ変えられるんじゃね?」みたいな動機だけで書いたとは到底思えません。
なのでファンとしては、「喜寿にして、敢えてそこに行かはるんですか?!」と驚き、しかし直後にワクワクが広がりました。
その行為だけで、既に十二分に「メタ批判」たり得るじゃないですか。
筒井のファンで良かった。こんなに痛快で楽しい思いができるなんて、幸せだ。

そして。
筒井翁が、「上から目線の批判や非難」のためだけに小説を書き上げる、ということは、実は全くあり得ないのだと、私は判断しています。
「怒り」はあるかもしれません。しかし、人として「怒る対象」と対等に向き合わず、「自分が傷つかない高み」から見下げることしかしていない筒井作品を、私は知りません。
筒井一流の毒が端々に利いていて、一見「ラノベを恐ろしいほどコケにしている」だけの作品に見えますが、そうならないような仕掛けも山盛りあります。
だからこそ、「人の嫌な悪意だけを見せられた」というような不愉快な読後感にはならないのです。

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しかし、あー、ほんとに、涼宮ハルヒやら何やら、そして他の、大量生産されているラノベたち、読んでみたいなぁ!(笑)

…「ラノベ読者」が筒井作品に誘導されることはなさそうな気がしますが、「筒井読者」がラノベに誘導されている…
これって、「オセロが裏になって裏になって表」で、つまり私は素直に出版社および筒井康隆の術中にハマったんですねぇきっと(笑)

 


ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS) 筒井康隆・著


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